8月21日

 9時起床。早朝から出発しようと思っていたのだが、夜中に目を覚まして以来、明るくなり始める朝方までなんとなく寝付けなかった。時差とそれから、久しぶりに一人で荒野に出かける為、少し緊張しナーバスになっているようである。あれは大丈夫か?これは大丈夫か?様々なことを考えだすとキリがないのだ。
 寝袋から這い出して、さっさと多めに炊いた昨晩の米の残りのおにぎりをほおばり、小川の横から撤収する。今日の空は、いい天気になりそうな予感がしている。港まで移動して、折りたたみ式カヤックを組み立て始める。カヤックはアルフェック社のボイジャー415。アルミニウムの組み立て式ポールにグラスファイバーの外皮をかぶせるだけの構造だが、これがよくできていて、僕はこの艇でパタゴニアから、アラスカから氷河を撮影する為に、数回これまでも旅してきた。
 艇を組み立てている横で、一人の地元漁師風のおじさんがじっと僕の様子を眺めている。「おれはここアラスカにずっと住んで、いろんなカヤックを見ているけれど、こんな船はみたことねえな?なんだかまるでかつての原住民たちの船みたいじゃあないか。日本から持ってきたのかい?」アラスカの漁師は日本の漁師たちと違ってなかなか格好もなかなかスタイリッシュでおしゃれである。おじさんの名前はハック。なんでもこの港に停泊している船の中に住んでいるらしい。昼前なのにすでにフォスタービールを飲んでいる。「こんな自然の美しい所に住んでいて幸せだね。」と僕がそう言うと、うれしそうに笑っていた。ハックはとても興味深そうに、僕がこのカヤックでどこまで行くのか?食料はどうするのか?いい地図は持っているか?いろいろと訊ねてくる。きっと僕がひとりで原野を旅するには、頼りなく見えたのかもしれない。
 僕の持っている地図を見せて、「最終的にここハリマンフィヨルドまで行こうと思っている」と言うと、「ジーザス!ユークレイジー。ひとりでそんなとこまでこの艇でいくのか?リュックから取り出した船でこんなところまで行くのか?毎日どれだけ漕がなきゃならん?なんの為に?おまえもしかして、この辺の金鉱で金を探そうっていうんじゃなあないか?」などとハック。
 「写真を撮っているんだよ。特に氷河に興味があってさ。氷河の中でも海に流れ出してるタイドウォーターグレイシャーに興味があってさ。本当に美しいだろ。あの氷河の中で輝く青はさ。」と僕。
 「そうか写真か、俺の知り合いのパイロットも昔、空からビデオを回してそれが結構いい金になったって言ってたな。そうかフォトグラファーって奴か。まさか金堀りなら、時代錯誤もいいとこだよな。だけど、おれも昔ちょこっとは金鉱から金をエクスポーズしたことあるんだぜ。ほんの遊びだけどな。このへんは結構金鉱が多くてな。あらかた掘り尽くされちまった。まあ大がかりにやらなくちゃ、たいした金にはならん。遊びだよ遊び」
 ハックは、組み立て終えた僕のカヤックを見て口笛を鳴らして「ビューウーティフル。」とつぶやく。ちょっと待ってろと、一旦自分の船にもどると、アルコール消毒瓶と銀色のビニールテープを持ってくる。ほんのちょっとした僕のカヤックの上部にあった丸穴をめざとく見つけ、そいつを持ってきた消毒液でふいたあと、「よしこれでいい」とテープできれいにパッチしてくれる。なんだかこの銀色のパッチは僕この旅のお守りのような気がしてならなかった。
 荷物をすべてカヤックに積み込むと、後はもう漕ぎだしてゆくだけだ。「ハリマンフィヨルドに行く前に一旦、街に戻って来な。4、5日後に天気が大きく崩れるぜ。」ハックが桟橋から手を振ってくれた。時刻はすでにお昼近く。いざ出陣だ。氷河の壁が行く手を阻むまで、僕は毎日漕ぎ続けるつもりだ。不安な気持ちで胸がそわそわしながらも、この時を待ちこがれていた期待感で張り裂けそうな気持ちも同時に胸に抱えている。ー船出。どんな時代のどんな港からのどんな船でのものであれ、広大に待ち受ける海へ漕ぎいでる瞬間には、いいも言われぬ感情がわきおこる。この胸の高鳴りの感触が、思い起こせば陸の上でも僕の胸を鷲掴みにしていて、重い荷物を引きづりながらもなんとか僕は、ここまで来たのだ。
 まずは手始めに約20マイル(32キロメートル)程はなれたブラックストーン湾入り江まで漕ぎ出して行こうと思う。往復と撮影でちょうど4、5日くらいであろう。今日の目標は、8マイル(約10キロ)程離れたDesicion poiontと呼ばれる岬。日本では今回の遠征に備えて、週に数回、相模湾でパドル筋を鍛えてきた。鎌倉の稲村ケ崎から江ノ島への往復の7キロが、ぼくのカヤックに置ける距離感のベースになっている。荷物を大量に積み込んだカヤックは、けれどその分海水との接地面も増え負荷がかかり、その分パドルをこぐ手にも力が入る。急激に漕ぎ続けず、ゆっくりいこうと自分に言い聞かせる。これから先は、なんと言っても長い道のりなのだ。まわりの景色を改めて見回してみる。自然はいつもとても静かである。静かにただただそこにある。弛緩された時間がそこには流れている。何時来てもそのことだけは変わらない。この一部になりたいと思い、こういった世界がいつもあるのだと思い出し、僕は、こうしてアラスカに通いつづけているのだ。きっと。
 Shotgun Cove、Squirrel Cove、いくつかの岬と小さな湾を抜けて、Desicion poiontに順調にたどり着く。風、波ともに順調であった。所要時間3時間半。上陸可能な手頃なビーチを見つけ、素早くテントを岩陰に設営して湯をわかす。温かい緑茶で一息つく。日のまだ高いうちから野営の準備をする。薪を拾いながら、辺りを散策してカヤックに座り続けて硬直した体をほぐす。本日も食事は鮭、みそ汁、米の三点セット。体を酷使した後に自然の中で食べる食事はなんと、おいしいことか。明日に備えてさっさと眠る。

  氷河日記  
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