8月31日

 夜半にも強い風が何度もテントを吹き付けていた。何度も夜中に目を覚ます。寝袋が濡れないように、テントの真ん中で体を縮こませるように眠っていた。けれど、辺りが明かるくなるに従って次第に突風は止み、気がつくとタープを打つ雨音は弱まり、朝には軽い雨が降るばかり。
 寝不足と丸一日テントの中にいたせいで、出てきたばかりの穴熊のように少し足下がふらつく。テントから這い出して、海の様子を確認しに行く。海上もカヤックの航行に問題がなさそうな風向き。次にいつ移動できるかわからない状況では、好機を逃す訳にはいかない。パンにジャム、コーヒーにゆで卵の朝ご飯を素早くとって、撤収作業。昨晩の強風でテントのポールがスリットからぽっきり一本折れているのが判明。2本渡しのポール式テントはやはり構造上、横風にとても弱い。写真用のテープで補強してなんとかこの後の旅は凌いで行くしかない。
 荷物を積載して、また海に漕ぎいでると昨晩の陰鬱の気分はどこへやら、どこまででも漕いでいけそうな気がしてくる。この爽快さがカヤック旅行の醍醐味なのだろうと思う。土地と共にそこにあった気分や思考は置いていってしまえばいい。次の土地にはまた新しいものが待っている。ただただそのことに胸をときめかすように、海に漕ぎいでていけばいいのだ。と、出発してから間もなくレインジャケットのポケットに入れていた地図を海に落としてしまう。拾い上げる隙もなく、地図はゆっくりと海底へと沈んでゆく。あっという間の出来事だった。あっというのが早いか、地図はぐんぐんと海の底へ沈んでいく。なんだかその土地の地図が海底に沈んでシーンは、象徴的でどこか印象的でさえあったけれども、旅に支障を来しかねないミスである。全く同じ予備の地図を万が一の為、ザックの底に携行していたから良かったものの、地図をなくしてしまったら、一体この先厄介である。全くもって厄介である。ここ無人の荒野では、ちょっとしたことが命とりにだってなりかねないのだ。
 地図を一枚落としたことを契機に、また一段と気をひきしめる。ちょっとした油断や気のゆるみの怖さを知る。海は、無遠慮で、無慈悲で、もしも己の力のみで海を航行しようと思うなら、海が己に求めてくるのは常に強さのみであるのだ。冷静沈着さと正確さ。上腕二頭筋と骨格三頭筋。そうこの旅のなかでは様々なことが求められる。僕はおっちょこちょいな船長でありながら、単調な献立を調理し続けるコックであり、バランスを追求するパドラーであり、日常的でプライヴェートな探検者であり、熱心にしつこくイメージを求める写真家であるのだ。
 Harrison Lagoonをこえてゆくと、あとは一直線にハリマンフィヨルドへの最終コーナーである、ポイントドランを目指すのみである。早めの昼食をとり、食後のハーシーチョコレートにコーヒーを摂る。この時を午前中から戦後の子供のように待ちわびていた。ゆっくり食べても、あっという間にその板チョコはなくなってしまう。口に残った甘みを苦いコーヒーで流して行く。
 寝不足の為、マットを敷いてタープにくるまり少し昼寝。太陽が射し込むもすぐにまた厚い雲に隠れて、軽い雨が降ってくる。少しのつもりが、2時間ほど昼寝してしまう。ひどく体を洗いたい。今度太陽が顔を覗かせたら、気合いを入れて全裸になって極寒の小川に飛び込もう。昨日からの寒さと、テント内生活で体が完全に萎縮してしまっている。午後、海上は北から冷たい風が吹き付けてくる。チュガッチ山脈が大きくその姿を遠くに現し始める。この南風はまるで大きな冷蔵庫からの冷風のようである。身を低くしてひたすら漕ぎ続ける。アザラシがぽこぽこと遠くで浮かんでいる。警戒して頭の先だけ出してこちらを見ている。その姿はまるで坊主頭の人間がこちらを見ているようでもある。ドランポイントは後少し。遠くに、フィヨルドの奥にあるバリー氷河がとうとう姿を現す。
 夕方、ドランポイントの対岸にわたり冷たい風をかわすポイントで今晩のキャンプ設営。いつものように、灌木を拾い火を起こす。だんだんと多少濡れている時でも火を起こすのがうまくなってくる。湯をわかし、緑茶を飲む。今日一日のノルマを漕ぎきった達成感がわきあがる。明日以降ドランポイントを曲がって、とうとう目指すべきハリマンフィヨルドに突入してゆく。これからが本番なのだ。これまではいわば肩ならしとも言っていい。
 少し風がすさぶなか、なんとあろうことか、飯炊きに失敗。風に吹かれていたせいで、火力が足りなかったのだろう。極めて初歩的なミスである。所々で固い米を無理に食べるはめに。貴重な米を無駄にはできない。米の芯をよく噛んで食べる。なんとか食べられるけれど、芯ののこる米はなんとも味気ないことか。ひどくがっかりする。一日の航海の後のほくほくのご飯を何より楽しみにしていた船長が、コック長にお願いだから米だけはきちんと炊いてくれるようにお願いする。コック長は、ひたすらに反省し、今度こういう事がないように誓う。

  氷河日記  
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