9月2日

 大きな氷塊が滑落した時の轟音が、地鳴りのように響き渡る。それは大地そのものの持つ圧倒的な力を誇示するような、地球のうめき声のようである。あまりに深い眠りから目覚めると、いつも自分がどこにいるのかわからなくなるように、氷河の滑落音に起こされながらも、ここアラスカの荒野に居ることを不可思議に思う。旅先の目覚めではよく起こるあの感覚だ。そうだ、僕は旅に出ているんだと。ここは我が家ではないのだと。
 疲労と朝の冷気で凍えた体にむち打って、テントのジッパーをあけて這い出す。サプライズ氷河の威容がいきなり、目に飛び込んでくる。朝一の寝ぼけ眼に氷河の白がまぶしい。我ながら、すごいところで昨晩は夜を明かしたと思う。
 天候は曇り。太陽は顔をだしていない。風微風。降雨なし。絶好の氷河撮影日和である。コーヒーを湧かし、目の前のサプライズ氷河をじっくり観察する。朝食後もマットを出して、酷使した体をほぐしながら、サプライズ氷河を観察。やはり、氷の壁の向かって左側に近づくのは、とても危険そうである。滑落の頻度が高い。それに比べて、正面と右側の氷の壁は横へ圧縮される力がかかり、細かい部分的な氷の崩落は見受けられるが、撮影のチャンスは十分にありそうである。そして、その凝縮された濃い青の部分に昨晩から僕の目は、釘付けである。
 2000年夏、このサプライズ氷河沿岸で3人乗りのカヤッカーが、氷河の滑落を受けて転覆をしているという。幸い岸に泳ぎついた為に事無きを得たというが、氷河近くの水温は限りなく、氷に近く冷たい。服を着たままならば、数分で低体温症になってしまう水温である。ウエットスーツを着ていても、どれだけの時間たえられるだろうか?
 まずは撮影に出かける前に体を洗う事もかねて、一度全裸で泳いでみる事にする。そうすれば万が一転覆した時のショックも和らぐだろうし、恐怖心も振り払えるに違いない。心頭滅却すれば、氷河の水もまたぬるしであろう。はじめに焚き火をおこし、水からあがったらすぐに暖をとれるようにしておく。服を脱ぎ捨て足から浸かるが、精神を集中したところで泳ぐなんてもっての他である。一度頭まで浸かるのがもう精一杯で、次の瞬間には、焚き火に走る。焚き火の前で体を洗いもう一度、咆哮しながら行水。震え叫びながら走って焚き火に戻る。端から見れば全く持って変質者であるけれど、誰もいない大自然の中で、産まれたままの姿になるのはなんとも気持ちのよいことである。ほおおおおお。ほっほおおお。
 体を十分に乾かしてウエットスーツを着込む。それからカメラ機材だけ積み込んで出航。大きく対岸の方へ回り込む様にして、氷河の壁に近づいてゆく。行水により、頭はとてもクリアーである。なんだかいい写真を撮れそうな予感さえする。向かいの岸辺つたいに、ゆっくりと確実に氷河に近づく。昨日の夕方のような、強い逆風も今は凪いでいる。まるで氷河自体が僕を迎え入れる様で不気味である。近づくほどに、氷河の圧倒的な姿がいつものように僕を威圧する。露出計で光を計り、それをポケットにしまうと後は、腹に力を入れて一心に近づいてゆくのみだ。躊躇は命取り。どのくらい近づいただろう。どれくらいの時間がかかったろう。持っているフィルム全30カットで無事撮影終了。フィルムが終わると、全力で漕ぎ氷河から離れる。決して後ろを振り返ることなく。心臓は以前激しく鼓動したままで。
 どれくらい、その後氷壁から離れた頃だろうか?ふと後ろで地鳴りのような音がする。振り返ると、末端の壁が地滑りのように崩れている。僕が狙いを定めてさっきまで撮影していた壁である。とりわけ青が凝縮されていた部分である。崩れた氷の塊が著しく、海面を乱しその波がしばらくするとぼくの所まで届く。腰丈くらいの波であろうか。慌てるには値しないものである。けれど、撮影がもう少し遅かったらと思うとぞっとする。スプーンですくったアイスクリームのように、ぼこりと氷河が雪崩している。午後あの崩れた部分の撮影をしよう。これで崩れる前と崩れた後の両方が撮れるではないか。
 潮の満ち引きで、崩れた氷塊が流されるのを待つ間、東隣にあるサーペンタイン氷河のロケハンにいくことにする。こちらに来る途中には、視界に見えなかったけれど森の奥に隠れているのだろうか?地図で見ると、サプライズ氷河のように海に落ち込んだ海岸氷河のように見受けられるが。
 北側の斜面を2、3マイル(3、4キロメートル)程引き返してみてもサーペンタイン氷河は見当たらない。地図が間違っている事は決してあり得ない以上、僕の地図の見方が間違っているのか?つまり僕は自分の現在地を勘違いしているのだろうか?少し不安になって引き返そうかと思った頃、山の斜面の黒い砂地の下にうっすらと氷河と思しき白いものが見える。全体的にモレーン砂に埋もれた、汚ならしい氷河である。明日以降も撮影の対象として、サーペンタインは外すしかない。フォトジェニックではないのだから。
 テントに戻ると、既に時刻は3時半を回っている。卵を落とした即席麺とハーシーチョコを食べて、しばし休憩。疲れた体で眠り込みそうなところを、もう一度サプライズ氷河の撮影に出かける。雪崩のように地滑りならぬ、氷すべりした氷壁の爪痕をそそくさと撮影してまた戻ってくる。今晩は、もう少し氷河から離れたところで野営する為に、荷物をまとめ撤収、出航。フィヨルドの南面まで漕ぎい出て、そのまま岸辺沿いを西に進む。どこか適当なキャンプ地を探しているうちに、随分と漕ぐはめに。日が沈み暗くなってくる。真っ暗にまる前に、ようやくキャンプによさそうな場所を見つける。昨日に続きへとへとに疲れてくる。とうとうハリマン氷河まであと数マイルである。テントを張る。夕食をとる気力もなく、そのまま寝袋に入り込む。

  氷河日記