9月5日

 朝7時過ぎ起床。曇り。氷河撮影日和である。昨晩野営した場所の目の前の丘に登り、コックス氷河ならびにバリー氷河を観察しながら、朝食。バリー氷河は正面、約1マイルくらいの距離だろうか?幅500mくらいの中ぐらいの大きさの氷河である。よく注意して、浮いている氷塊に閉じこめられないようにしながら進めば、接近することは十分可能であるだろう。けれどここから観察する限り、近づいて行きたい青があまり露出していない。敢えて言えば、中央左奥の部分に圧力が若干かかっているだろうか?とにかく撮影の為には対岸に大きく回りこみ、そこで再度観察が必要であるだろう。遠くから見ているだけではわかりかねる。
 一方、バリー氷河の右隣は、急な斜面から一気に海面に氷が落ち込んでいる、「手頃な」サイズの海岸氷河である。一部中央に岩肌が露出してしまっているが、凸型の僕好みの氷河である。左右の奥まっている部分は急な斜面から頻繁に細かい滑落がみられ、近づくことは問題外。中央部分を目指して撮影に望むべし。コックス氷河の真向かいには、海岸に落ち込んではいないけれど、カスケード氷河がその末端を覗かせている。ここはさながら3つの氷河の、最終待ち合わせのような場所である。山の山頂で降り積もった雪は、何万年という長い年月をかけて、ゆっくりゆっくり蛇行しながら谷を下り、そしてここで海と出会い、滑落というダイナミズムを伴って各々同じ海に溶け合うのだ。氷壁の凝固したこの青は、一人の人間が到底経験する事のできない時間のもつ深みとしてそこにあり、自然は惜しみなく目の前で時間をかけてつくられたその造形を、壊してみせる。この場所は、氷河という深淵な流れの終わる場所であり、同時にまた海という更なる大きな営みの始まるところである。
 曇り空の下、光が真上に集まる昼まで待機。丘の上で読書。滑落がある度に、顔をあげてその位置を確認する。比較的のっぺりした表面のバリー氷河が、細かい滑落を繰り返している。改めて読み始めた、志賀直哉の小説「暗夜行路」の主人公である、時任健作の青年期の心の動揺に、氷河の滑落の乾いた音がリズムをつける。やはりひとり旅の醍醐味のひとつは、この自由な読書の時間にあるのは、間違いがない。
 昼前、ウェットスーツを着込み機材を積み込み、大きく時計周りをしながら、バリー氷河、コックス氷河の順で撮影を開始する。大きく湾を回り込むと、真ん中に地上に露出した大きな岩がある。向こう岸の岩肌と同化して、隆起している岩があるのは観察していた丘からは全然わからなかった。そしてその大きな露出した岩の奥に、カスケイド氷河から落ち込んだと思しき氷塊が、たくさん浮遊していてとてもきれい。浮遊した氷塊の撮影にフィルムのほとんどを使用してしまう。一旦キャンプに戻りフィルムをつめ直す。遠くから見つめているだけでは、本当のことは何もわからないものだ。近づいて、体験して、さらにもっと肉薄しようとしなければ、本当のことは何もわかりはしない。それは写真を撮影する上でのひとつの哲学であるだろう。ここから見える対象の姿は、こちらから見たというだけの姿であり、その対象の本当に姿では決してないのだから。
 今度は、反時計周りでコックス氷河、バリー氷河へと向かう。幾分に氷河の前に進んでいく事にも慣れてきた。人は恐ろしい事に何にでも慣れるものである。慣れ始めた頃が一番危ないのだぞと自分自身に言い聞かせるも、触れるほどにコックス氷河に接近。コックス氷河の中央部は、見るからに上部左右からの圧力がきいていないところがあり、上陸さえできそうであった。今度は、バリー氷河に左奥の対岸側から接近を試みる。安全圏内でしばし観察。アザラシが、不思議そうに浮いている氷の上から僕の事を見ている。随分とアザラシは氷壁の近くでのんびりとしているものである。ラッコと違って、体の大きなアザラシは近づく意思を見せなければ、逃げたりしない。氷河の滑落で死亡したアザラシなどはいないのだろうか?そんな間抜けな野生動物はきっといないのだろう。僕は、アザラシほど氷河の近くで落ち着いてはいられない。風はとても友好的に今日の僕の撮影を見守ってくれている。白い壁をずっと見続けているとだんだんと距離の感覚がわからなくなってくる。やはり決定的に僕には、青が必要だ。その青の濃度で距離を計るのだ。白は錯乱の色だ。今一歩、あと一歩を見極められない。最後のフィルムを撮り終えると、ぐったりとしてキャンプに戻る。
 遅めの朝食をとったあと、丘の上に登って読書の続き。活字に飽きるとまた遠くの氷河を見やる。とりあえず訪れるべき氷河を見て回り、旅の中で一番のリスクを負わなくてはならない撮影も、ひとまず終えた。あとは、安全に帰るのみである。終日漕ぎ続ければ、丸3日あれば十分ウィティアーの街まで帰れるだろう。改めて、この湾に注ぎ込む3つの氷壁を見ながら、主要な撮影の終わった感慨に少しとらわれる。パドルワークで筋肉痛の肩から少し、荷が下りた気持ちがする。写真を撮る為とはいえ、荒野でひとり危険を侵すような行為を、普通の常識では正当化できないよなと今更ながらに思う。知らないものを知りたい知識慾。見た事を見てみたいという好奇心。それらは実際、最もらしい理由だが、いざという時にはなんの役にも立ちはしない。死の恐怖や、圧倒的な自然の脅威に向かってゆく事は、そんな理由で整理のつくものではない。乱暴な言い方をすれば、自分を奮い立たせているものは、体の奥からわき上がる生理的反応に似た何かだけであると言ってもいい。さらに誤解と矛盾を恐れずに言えば、ある程度の危険を侵さざるを得ないのは、自分自身の生への愛情の裏返しなのであると、僕はひそかに思うのだ。
 夕食前に、残りの食料を恐る恐る確認する。だいぶ今まで後先のことを気にせずに食べたいだけ、食べてきた。食料コンテイナーもだいぶ軽くなっている。米が数日分。みそは十分にある。ご飯のおかずがとてもとぼしい。サバ煮缶2つに、スモークサーモンの切り身に、梅干しだけである。昼ご飯用の即席麺、パスタもあと数日分。ハーシーチョコもあと数日分。これからは、天候で足止めを食らうことを計算に入れるならば、節約していかなくては、いけないだろう。体にビタミンが不足しているのがよくわかる。ビタミン剤を服用。夕食前に、コックス氷河の脇をトレッキングしに行く。食料は、心配してもどうにかなるものではない。けれど、とりわけこの無人の荒野では、お腹一杯食べれないのはなによりもつらくせつないことである。

  氷河日記  
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