7月31日

 外の明かりがうっすらと部屋の中を照らし始める。昨晩も横のベッドで寝ているジェームズのふいごのような鼾と、僕の上でねているピーターの寝返りの激しさで、何度も夜中に目を覚ます。なんとも、部屋の中に充満した空気が堪えられない。ふたりのおじさんの体臭と口臭が混じりあって、その匂いが地を這うように、充満しているような感じ。シミだらけのシーツに自分の寝袋に入り込んで眠っていても、寝袋ごとなんだか、汚臭に犯されそうである。
 起きるとすぐに逃げるように部屋を出て、共有キッチンでゆっくりとする。インスタントコーヒーを淹れて、トースターでトーストを焼く。時刻は未だ6時過ぎ。キッチンには少なくとも、夏のアラスカの朝の澄み切った空気で満たされていてほっとする。窓の外ではハミングバードが鳴いている。

 そのうちに僕の上で寝ていたピーターや、別の部屋に宿泊しているカリフォルニアからのカップルたちが次々と起きだしてきて、静かなキッチンに入ってくる。誰かが、キッチンに設えたラジオのスイッチを入れて朝のニュースが流す。ヘインズの今日の天気予報は曇りときどき雨。いまだ重たそうな雲が低くたれこめている。
 僕は、みんなと入れ替わりに部屋に戻って、街へ出かける準備をする。部屋では、横のベッドで寝ているジェームズがベッドでもそもそしながら、僕に話しかけてくる。上半身裸で寝ているジェームズの体は、全身入れ墨だらけである。漁船にのりこむ漁師なのだそうだが、なんでもこのところの不況と不漁で、乗り込む船が見つからないとのこと。このヘインズの街まで流れてきたが、つてがなくては乗船する船を探すのも難しく、困っているとのこと。
「ああ、俺の人生は、なんだろうなあ。金もないし、女もいない。年をとってから、こんな暮らしをするとはまさか思わなかったよ。」と。初対面の僕に、寝起きのベッドの中から、弱音を吐き始める。打ちひしがれて、ベッドから起き上がる気もしないのだと。立派な口髭を蓄えて、全身タットゥーだらけの外見と、口をついて出てくる弱気な言葉のコントラストが、なんだか余計に哀れみを誘う。でもそれにしては、あんな鼾をかいてよく眠れているけれどなあ。おじさんよ。
「いいときもあれば、悪いときもあるよ」などと、僕。
「そうだよな。良いときもあるよな。でもこの状況じゃあ、良いときってのもなかなか想像ができないぜえ。」
「昔のよかった時を思い出してみれば良いよ」と僕。
「昔のかあ。そおだなあ。シアトルで船に乗っていた時は、よかったなあ。特に、大漁で寄港したときの、気分は最高だったなあ。あんな時の気分は、忘れられないよな。街に帰ったら、まずは、女。帰ってきた夜は、酒を飲み過ぎちゃあいけないよな。せがれも眠ってしまうほど、酒をのんじゃあだめだな。まずは、女を抱かなくっちゃ。最初の夜は、2、3人は相手にしたいよな。おい。俺は、アジアンの女の子が結構好きだぜ。マイフレンド。彼女たちは、スイートだよなあ。オー、メン!オー、ガッデム、シット。男は仕事がなければだめだぜ。もう数ヶ月仕事がないんだ。日本に行けば、なんとかならないか?日本人は、魚をよく食べるから、漁船だって多いだろ?」

 日本の港もここのところ不漁らしいことを教えてあげて、なんとなく早々に部屋を後にする。一体、僕が何を言ってあげられるだろう。ジェームズ。でもまたきっと良いときが来るってもんさ。

 昨日まで億劫に感じていた、街までの数キロの道も、何となく今日は、清々と感じられる。相変わらず、あたりの空は厚い雲で覆われている。四方を山に囲まれたヘインズでは、雲がいったんその山間に張り出すと、晴れ上げるのにも時間がかかるのだろうか。
 きっと、今日もセスナ機は飛ばないであろう。折角の遊覧飛行を、誰が曇り空で飛ぶだろうか?案の定、訪れた街の遊覧飛行事務所で、明日また来るように、あっさりと言われてしまう。けれど天気予報では、明日の午後以降で晴れてくるだろうとのこと。明日か、明後日にはフライトのチャンスが、あるだろうとのことである。

 今日も、また手持ち無沙汰の午後である。リュックに詰めて持ってきた洗濯ものを街のコインランドリーで洗濯する。その後、昨日と同じように図書館へ向かう。街の図書館は、ひどく居心地がよい。勉強をするように本を読んでいる人は、とても少ない。多くの人は、ソファに深々と座り込んで、本を片手にうたた寝をしているようである。本を読むという行為への意思を表示するだけで、人は外界から守られて、図書館というシェルターの中で、つかの間、現実と夢の間を彷徨できるのである。
 僕も、昨日の続きでアラスカの鉱山の歴史の本を、読むともなく読んでいると、いつの間にかゴールドラッシュ時代のアラスカから、ずるずると底なしの沼地のような眠りの世界へ、心地よく引きずり込まれてしまう。夜、何度も何度も、横から壊れたアコーディオンのようなの鼾と、上からの規則的な寝返りの振動で、起こされ続けているせいである。
 昨日は、全く同じように今日に接続しているようである。それならば昨日と同じように、今日も図書館を出たら港のバーに行って、アンバービールを飲み始めようか。こんな小さな街で、ずっと曇天が続くようならば、僕もいっぱしの酒飲みになってしまうだろう。

 港の駐車所の横にある、その名もハーバー・バーのカウンターでは、同部屋のピーターがカウンターの角を陣取って、はや飲み始めている。
「ヘイ。ゲンターロ。ワッツ、アップ?セスナは、まだ飛ばないのか?この空じゃあ飛ばないよな。おい。聞いてくれよ。このおじさん。なんでも漁船の持ち主で、乗り込む漁師を探しているんだとさ。早速、俺、宿にいるジェームズに電話したんだよ。今すぐに街のバーに来い。仕事だ。仕事があるぞって。さ」

 しばらくすると、よれよれのシャツにジーンズ姿のジェームズがバーにやってきて、ピーターの横に座っている恰幅のいいおじさんと何やら話し始める。どうやら本当にその場で、ジェームスの乗船が決まったようである。ふたりはうれしそうに握手する。ジェームスは本当にうれしそうである。勢いよく、ビールを飲み干して、もう一杯おんなじバドワイザーを注文する。こんなことってあるんだな。なんだかとてもアメリカらしい光景である。
 そして、ピーターが横でた煙草を吹かしながらにやにや笑っている。オーストラリアの海軍にいたという彼は、なんだか不思議な旅行者である。