8月3日

 昨日と同じく、バーレット岬のテント場で起床。熊から食料を守るために設置された小屋から自分の食料を必要な分だけ取り出して、素早く朝食を済ませる。昨晩の残りの米でつくったおにぎりと、みそ汁。今日は、朝食を済ませたら余計な事を考えずに、さっさと出航してしまうこと。それが弱気な自分を組み伏せる一番の方法である。
 テントを撤収して、カヤックに荷物のすべてを積み込んでいく。2週間分の食料である、米5キロ、パスタ3袋、インスタントラーメン10袋、卵を2ダース。インスタントおかゆ10袋、オイルサーディン10缶、アンチョビ5缶、スモークサーモンの真空パック3袋、みそ汁30袋、 ジャガイモと、人参と、マッシュルーム。 ふりかけ各種、梅干し1パック。ハーシーチョコレート20枚、カロリーメイト、紅茶、緑茶、ほうじ茶。インスタントコーヒー、アミノ酸錠剤、ビタミン剤錠剤、などなどなど。さらにキャンプ道具であるテントに、寝袋、マットと、タープ、キャンピングストーブと、ランタンにガスカートリッジ5つ。そして着替え一式、雨具一式と、長靴に、トレッキングブーツ。撮影機材たるカメラ3台に、三脚とフィルムと折りたたみ式簡易暗室。
 いつものように、それらすべてを積み込んだ僕のカヤックは、見るからにぱんぱんである。僕には、荷物を分散させて持つ相手もいなければ、道具を共有する相手もいない。すべては、荒野で一人移動生活していく為に必要なものである。これ以上に減らすものはありはしない。勿論、旅が始まってしまえば、一日一日食料が減ってゆき、その分荷物も軽くなっていくだろう。
 時刻は、7時前。午前8時ちょうどの満潮まであと1時間くらいある。これからの2時間くらいが、ここバーレット岬からレスター島との間の細い水路を抜けて、氷河湾へ向かうことのできる時間帯である。この時間をもう逃す訳にはいかない。睡眠も休息も十分である。
 テント場の近くの水辺に停泊させたカヤックのコックピットに入り込み、手にしたパドルでひと掻きふた掻きしていく。水面滑らかにカヤックは進み始める。このひと掻きが、あとは80キロ先まで続くマックブリッジ氷河までのはじまりである。
 「ようし始まった」と鼻息を荒くする自分と、「やれやれ始まってしまったか」と半ば呆れるふたつの感情が同居している。「やれやれ」と思いながら、ついて出るため息に似た呼吸を「よおおし」と気合いの入った呼吸にひと漕ぎひと漕ぎかえていこう。
 岬の前の水辺には、潮の満ち引きによる流れが出来きていて、それがそのまま氷河湾へと続く水路の方へ向かっている。パドルを漕がなくても、ゆっくりと確実に僕は流されていき、背後の港は小さくなっていく。グレイシャー湾内の唯一の文明の景色である、その橋桁は点のように小さくなり、そして見えなくなっていく。
 昨日トレイルから眺めた、グレイシャー湾へ続いていく天然の水路に到達し、その細い水路をゆっくりと漕いで行く。昨日眺めていたこの水路は、あれから午後の間に一旦水路がなくなるほどに、引いてからまた満ちて、夜の間に引いてからまた今のように満ちているのである。最高で14メートルもあるグレイシャー湾の干潮差は、ダイナミックにその地形を変化させていく。いつも潮の満ち引きのことを考えながら、行動することが肝心である。
 荷物を満載した僕の艇は、若干沈みがちであるけれど、それでもしっかりと確実に水面を這うように進んでいく。その少しの沈みこみは、きっと僕の恐怖心からきているのだろう。恐れる気持ちが強くなると、人はどうしても多くのものを持って、旅をするようになるものである。
 けれど今、旅の始まりに少し沈み込むくらい積載させている僕のカヤックの荷物も、少しづつ少しづつ荒野の奥へと旅を続けていくうちに、少なくなっていくであろう。そして、荷物が少なくなっていくのと同時に、僕自身についた余分な肉や、余分な思考、余分な感情さえもきっとそぎ落ちていくに違いない。
 一旦出発してしまえば、昨日の鬱々とした気持ちはどこへやら。後は毎日毎日、力の限りに木製の手にしたパドルで海を引っ掻き引っ掻き進んでいけばいい。引っ掻いた水飛沫が、静かな海面を乱すように後ろへ後ろへと無数の波紋を残していき、その波紋が消えていくよりも早く、船は少し先の海面を切り裂いて進んでいく。水上を滑らかに進んでいくその運動感覚は、よるべのない漂流者たる僕を、これから毎日支えていくことになるだろう。前進あるのみである。浜辺から浜辺へ、島から島へ、潮にのり、風にのり、どんどん流れ流れて、漕ぎ進もうではないか。
 バーレット岬を出航すると、まずは潮の満ち引きで様々な形に様変わりする、無数の群島が待ち受けている。地図で正確に自分の位置を把握しながら、まずは的確な方向へ進み、この15マイルほどにわたる群島の森を縫うように、抜けていかなくてはならない。その先には、氷河湾の大海原が待ち構えており、本当の航海はそこから始まるのであろう。今日は、ひとまず群島群のどこかでテントを張って、野営することになるだろう。
 キドニー島という名前の小さな島に上陸して、森の入り口でテントを張る。いつも少し早めにパドルをやめて、一日の航海を終えるのがちょうどいい。なにせ僕は来る日も来る日もこれから数日ずっとパドルをし続けなくては行けないのだから、初日から疲れてはいけない。
 夕方になると、引き潮で作られた場所で、スモークサーモンの切り身をいれて、炊き込みご飯をさささとつくる。はじめちょろちょろなかぱっぱ。米が炊ける匂いとは、生きることそのものだ。といったら言い過ぎであるが、米が炊ける匂いを嗅ぎ、腹が減ったと感じる、米が炊けるのを待つ時間は、キャンプ生活の中の至福の時間である。
 食事の匂いを発しているうちは、常に熊を警戒せざるを得ないが、引き潮で作られた土地で調理をし、海を背に食事をすれば、とりあえずは、安心をして物を食べられる。そして、潮が満ちるとともに今晩の食事の匂いや、残りかすまでもきれいに海が洗い流してくれるのだ。
 あたりは、ただただ静寂に満ちている。自然は、いつもただただそこに悠然とある。もう僕もあわてることなく、あたふたすることなく、ただただ毎日少しずつでも前に進めるように旅を続けていけばいい。
 ふと、森の静けさの中からディジュリジュのような響きが、聞こえてくるような気がする。それはまるでトンネルのように大きなディジュリジュの楽器の音の振動のようである。巨大な蠅がその複雑な羽音ですべてのものを、扇いでいるようでもある。あの音は、一体なんの音だろう?僕の耳鳴りにしては、世界全体が振動しているようである。
 しばらく、その聞いた事のない奇妙な音に耳をすませていると、その音がクジラの鳴き声であることに、思い当たる。確証はない。けれど、グレイシャー湾は、ザトウ鯨の生息地であることを思い出す。そして、ザトウ鯨は、歌を歌うクジラとして、知られているのである。しばらくその奇妙な鳴き声に耳を傾けて聞く。もしこの音が、ザトウ鯨の鳴き声であるならば、それは、果てしのない程の長い長い呼吸なのである。
 
 小さなこのキドニー島の反対側にでてみると、うす暗くなり始めた空と海の間に確かにかすかな潮吹きが見受けられる。柔らかな風に乗ってくるように、たまの潮吹きの呼気がきこえてくるようだった。しかもそれらは、一頭だけのものではなく、何頭かの群れになっているのが見える。そして、ずっと聞こえてくる彼らの音楽のような鳴き声が、あたりの世界全体を震わせていた。
 海の膨大な海水を伝い、僕にも届くように反響しあうその鳴き声は、音楽以外のなにものでもない。ザトウ鯨は何百キロ、何千キロも離れた個体同士でコミュニケーションをとるというけれど、確かにこの声ならばそんなことも可能なのであろう。その飛行船のように大きな彼らの肺はどれほどの呼気を続けられるというのだろう。そしてその鳴き声を聞いていると、彼らが間違いなく高等な動物で、僕らと同じような感情があることがわかるのだった。
 ああここは、なんと美しい場所なのだろうか。こうして、クジラの群れが歌を歌っているのを、陸の上で聴いていられるなんて。憧れ続けていたグレイシャー湾の初日から、こんな場所でただひとりキャンプしながら、夜を過ごすことができるなんて。
 テントに戻り、寝袋にくるまりながら、ずっと遠くのその音楽に耳をすまし、意識の中で遠くのクジラの姿を追い続ける。それらの見えない旋律や果てしのないエモーションは、時には壊れたドアのきしみのようであったり、ときには高等なコントラバスの調べのようであったり、何頭のクジラがそこでコミュニケーションを楽しんでいるのか。その声に意識を集中していると、いつの間にか、あたりは暗くなっている。
 真っ暗な夜がやってきて、夜はあらゆるものの抽象度を高めていく。今では、クジラの鳴き声からあらゆる細やかな感情のひだを読み取れるような気がしている。それらは、ぼくらが喜びと呼ぶもの。嘆きとよぶもの。悲しみとよぶもの。切なさとよぶもの。楽しみ、憎しみとよぶもの。言葉で表しうるいっさいの感情が、個々の声に含まれているようで、目をつむり聴き続けているうちに、まるで自分自身の内情のすべてを表出させているような錯覚に陥り、なんだかそれが、とても気持ちがよい。自分の内側と外側がバターのように溶解して、耳の器官だけが勝手にテントの外皮をすり抜けて、夜の森の宙へとさまよっていく。
 テントは、いつしか妄想の中でクジラのお腹の中に変わっていく。僕は、いまではピノキオである。クジラのお腹の中にいるように、鳴き声の中に含まれる感情が、驚く程に直接、僕に伝わってくる。
 僕は、ピノッキオ♩人間のように歩けるのさ。歌えるのさ。僕は木の人形のピノッキオ。今では自由にどこへでも行けるのさ♫
 ピノキオは、そのあと、クジラの潮吹きによって外の世界に戻るのだっけ?いや、ゼベット爺さんが助けにきてくれるのだ。いや、ゼベット爺さんも一緒に食べられてしまったんだっけ?そもそも、ピノキオはどうしてクジラに食べられてしまったんだっけ?そもそも、木で作られた人形は、どんな魔法で旅をはじめることになったんだっけ?
 いつまでもいつまでも、歌声に包まれるように、浅い眠りの中を低空飛行していくような印象深い眠りは、どこかで折り返される事もなく、滑らかに新しい朝に接続されている。クジラの鳴き声はもう聞こえない。それは朝の小鳥たちのさえずりにとって、かえられている。テントは、薄明かりに照らされて、その薄い膜を開いて外に飛び出ると、大自然の景色が待っている。いやあ!とか、いよう!とかあくびをして深呼吸をすると、さて、氷河湾の3日目がはじまるのだ。