8月5日

 昨日キャンプを張った、スタージェス島の南側で起床する。昨日の朝とは違い、雲が空にかかりはじめている。西の空には、雨雲の様子も見受けられ、遠くに雨を降らしている。風の弱い朝のうちに次の島であるガルフォース島まで、早速漕ぎだしてしまうことにする。島までの距離は、約6キロほどである。
 昨日の筋肉疲労をほぐすように、朝のうちはゆっくりと漕いでいく。体が温まってきてパドルの速度を上げ始めると、水面にぽつんぽつんと水紋が現れてきて、雨が降り始める。まだ、本格的な降りではない。けれど、空は急に暗さを増してきている。とにかく、ガルフォース島まで早く辿り着くのがよさそうだ。昨晩までの天気が、まるで嘘のようである。やはり、高峰に四方を囲まれた、南東アラスカの天候は、非常に不安定である。
 午前10時、ガルフォース島の北東側のビーチに上陸して、ひとまず雨宿り用のタープにパドルを建てて、荷物をその下に運び込み、カヤックを満潮の潮が届かない場所へ、引き上げておく。荷物をすべて海から引き上げた後、タープの下で早めの昼ご飯をつくり始める。またしても卵入り即席ラーメン。それから食後のコーヒーとデザートのハーシーチョコレート。街では祖末な食事だとしても、この荒野ではこの3点セットは何よりのごちそうである。
 雨宿りのタープの下で、限定された視界から見える景色が、どこか僕をほっとさせる。雨の匂いを嗅ぎ、天井たるビニールシートのタープを打つ雨音を聴きながら、昼食後は、読書を始める。インスタントラーメンの昼食さえ豪華に感じてしまうのと同じように、荒野で追いかける本のなかの字面もまた、いつもより新鮮である。本の中の文字たちは、言葉たちは、ひとりの荒野では僕にとって、友達同然である。
 無人島のビーチに上陸して、じっと雨宿りをしていると、なんだか僕は漂流者風情である。まるで難破船からこの島にたどり着いた漂流者のようである。まわりにある物資たちも、まるでこの島に流れついたもののようである。助けを待つ間、なんとか島にある食料で食いつないでいけるだろうか?まずは、好奇心で近づいてくるオイスターキャッチャーの鳥を捕獲して食べてしまおうか。それから、水の確保が急務であるだろう。この無人島の散策を始めなくてはいけないだろうなあ。島に他に食料はあるだろうか。
 午後3時まえ、読書にも飽きてくると、漂流者が食料を探すように、雨具を着込んで島の散策にでかけることにする。ビーチの背後にある森の中に分け入り進んでいくと、無数のクランベリーが群生している森を発見する。赤い実が熟して大量になっている。その実は親指ほどもあり、甘酸っぱくて非常においしい。ここは天国だとばかりに、漂流者は持参したジップロックに、その赤く熟した実たちを採集してゆく。数日にわたるキャンプ生活においては、天然のビタミンはとても大切なものである。獣のように森の茂みにかがみ込みながら、採っても採っても採りきれないその実を追いかけむさぼり、また追いかけていく。
 
 ガルフォース島は全長1500m程の小さな平坦な島である。島は、ピーナッツのような形をしており森に分け入りながら、内陸を歩いて行くとすぐに島の端まで着いてしまう。
 雨はやむ気配もなく、雨具を着込んで出航しても良いのだが、なんとなく今日は、この島でそのまま野営することに決める。雨は人の体力を著しく奪うものである。まだまだ先はある。ここで無理をしながら進んで、疲労を困憊させるのは得策ではないはずだ。それに、ここガルフォース島は、パークレンジャー曰く、熊の生息していない安全な場所でもあるのだから、ゆっくりするにはもってこいではないか。
 ビーチと森の茂みの間に、テントを張りタープを設えて、晩ご飯は手の込んだカレーラースでもつくることにする。漂流民はきっとありつけないであろう、カレーライスである。米を飯盒で炊いた後、ジャガイモ、人参、マッシュルームをことこと煮込んだあと、カレーのルーをたっぷりと入れる。
 カレーの匂いは、自然の中にあっては強烈な匂いである。雨が自然の中のすべての芳香を落ち着かせているなかにあっては、ひどく刺激的な匂いである。ソースをたっぷりとかけて、米を無心に一口ほおばる。

 とそのとき、ある種の気配とともに、ビーチの端の岩陰で、真っ黒な動物がこちらの様子を伺っていることに、ふと気づく。見ると、そいつは間違う事なく、熊ではないか!あろうことか、ブラックベアーではあるまいか!
 
 文字通りに、手にしていたカレーライスの器を地面に落として、飛び上がるように立ち上がってしまう。あわわ。とうとう来た。熊が。しかもこんな島で。あわわわわ。
 僕との距離は、約30mほどであろうか。咄嗟にベアースプレーと呼ばれる芥子噴射スプレーを、荷物の中から探りだして身構える。
 熊は、ゆうゆうと地面の上をくんくんとしながらも、余裕で少しずつ少しずつこちらににじり寄ってくる様子である。あまりのカレーライスの匂いの強さに、おびき寄せられてきたのだ。見たところ少し愚鈍そうであるが、熊!そいつはやはり圧倒的な存在感である。
 それにしても一体、どうしたらいいだろうか?この状況。食料のすべてと移動手段であるカヤック、そしてテントなどの装備のすべてが身の回りにある状況にあっては、熊に背を向けて退散することは、不可能である。逃げてしまったら、熊は僕の食料をすべて平らげてしまうだろう。そして、もしあの凶暴な爪が僕のカヤックを少しでも足蹴にしようものなら、僕はもうこの島から脱出することはできないのだ。
 そうこうしている間にも、熊は全くのマイペースでのっそり、のっそりこちらに近づいてくる様子である。刺激的な匂いにおびき寄せられて、その正体を熊の方としても、なんとしても確かめるつもりなのである。
 僕の体に微かに宿る野生の本能は、少しづつ少しづつ後ずさりしつつある。体が自然と後ずさりしてしまう。けれど、逃げてはだめだ。やっぱりだめだ。逃げる事などできやしない。僕は、自分の荷物の何ひとつだって失うことはできないのだ。逃げたってなんにもなりはしない。この島で熊とふたりっきりな状況は変わりはしないのだ。
 ありったけの声をだして叫ぶ「オリャー!」とか「ウオー!」とか、熊は全くに無反応である。生き物として、数段に向こうのほうが上である。まるで僕は剣先を交えただけで勝負がついてしまった剣士のように、ただただおびえながら、格上の相手に咆哮しているだけなのだ。
 気づくと、僕はカメラを取り出して、熊を撮影し始めている。こんな状況でも写真を撮らなくてはいけないこと、こんな状況でも写真を撮ってしまうしまう自分を呪う。ファインダーの中で、熊の毛並みは黒光りしていて何とも美しい。のそのそしているように見える動作に無駄はない。動きはなめらかでいて力強い。まるでスローモーションを見ているようでもある。ゆっくりと水辺の方へ移動して、こちらの様子を伺いながら、地面に落ちている貝などを食べたりしている。全くの余裕である。
 ファインダーを覗き、写真を撮ると、少し落ち着いてくる。いやあそれにしても、どうしたものだろうか、この状況はって。大判のカメラを持ち出そうかと考えるが、それはさすがに止めておく。
 とにかく、大きな音を立てることである。叫びながら、あたふたあたふたしながらも、やかんを叩きつけたり、なべを叩きつけたり、また叫び、棒を振り回したり、振る舞いは、発狂者以外の何者でもない。熊だけがひとり冷静に、くんくんくんくん、少しずつ少しずつ、僕との間合いをつめてくる。
 未だ距離は遠いけれど、こうなったらとっておきの芥子スプレーを噴射するしかない。推奨される射程距離の15mには、まだ遠い気がするが、熊が15mに近づくのを待ってなんて、とてもいられない。
 やぶれかぶれに噴射してみた芥子は、けれどあろうことか熊とは全く逆の森の方向へと、柔らかな風に運ばれて飛んでいってしまう。黒熊のくんくんした鼻にはかすりもしないで、その赤い粉塵は、大気中で霧散していく。
 心臓がドキドキして、なんだか体が宙を舞っているようだった。じっとしていると、膝ががくがくしているような感覚である。引き続き、鍋ややかんを両手に持って叩き付けるが、今度は、やかんの把っ手がとれてやかんが飛んでいってしまう始末。「ウワー!」とか「オワー!」とかいいながら、足下の石を掴んで、熊の方へと投石をはじめる。怖いから、でも熊には決して当たらないように。あの獰猛な手の先の爪をみたら、無駄な刺激だけはしたくない。
 だって、何度もいうように、逃げる訳にはいかないのだ。逃げてどうなるのだ。ここは島なのだ。誰も助けに来てはくれないのだ。なんとか、ここから自力で脱出しなくてはならないのだ。とにかく、カヤックを水辺に浮かべることが先決だ。持てるだけの荷物を積んでまずは、安全地帯に脱出しよう。そのためにもあの黒光りする四つ足の動物を、なんとか水辺から追い払わなくては。
 動体視力の全く弱い熊は、僕の投げる石を視線で追いかけられず、ただ足下ではねる石を不思議そうに見ている。投げているのが僕であることさえ、分かっていない様子である。というより匂いにおびき寄せられているだけで、そもそものはじめから僕などには、全く興味がない様子である。
 その間にも、「ハリャー!」「トゥワー!」などと今では叫び声が、奇声に変わりながらも石を投げ続ける。投げる合間に、周りの荷物をまとめ始める。テントは撤収できないまでも、食料や撮影機材だけは決して失う訳にはいくまい。熊の手前で石が落ちるように、何個も何個も投石を続ける。
 
 強烈な食べ物の匂いの正体が知りたくて、にじり寄る黒熊と、投石と雄叫びという極めて原始的な防戦による攻防がどのくらい続いただろうか。熊は、自分の手前でコチンコチンととはねる一個一個の石を、不思議そうにしているが、ひるむ様子はあまりない。けれどそのうちに、僕の投げた石が、地面で跳ね返り、熊五郎の前足に初めて当たってしまう。
 それまで、いまいち僕が投石していることさえ、分かっていなかった熊五郎が、自分の体に触れられたことで、一瞬ひるみだす。僕が投石していることを、ようやく理解したようである。てやんでい。すっとこどっこい。こちとらには飛び道具があるんだぜい。
 ようやくにのっそりと黒熊は、水辺から森の方へ移動してゆき、こちらの様子を伺う。ここぞとばかりに、今まで以上に石をおもいっきり投げつけて、ありったけの声で叫ぶ「ふんどりゃー!」「あちゃー!」
 今では僕の方も、その石を熊五郎の顔面めがけて、当てるつもりである。このチャンスを逃してなるものか。石は、幸いにして熊の背後に向かってそれていく。森の方へ移動していく熊五郎と、僕との距離が瞬間、最大限に縮まって、目の前の獣が身に纏う野生の気配に、どきりとする。
 毛皮の光沢、毛皮の下に隠された筋肉の動き、森を裸足で歩き続けるその後ろ足と前足の太さ。そしてその先についた鋭い鋼鉄のような5本の爪。その姿は、豊かなアラスカの森の滋養を一身に受けた森の権化である。その身に纏った黒は、山、森、川、この自然のすべてをブラックホールのように飲み込むことで成立しているのだ。
 熊は、のっそりと森の茂みの方まで退却し、そこで初めて二本足で立ち上がってみせる。僕は、石も投げられない程の恐怖を感じてたじろぐ。立ち上がってみれば、そいつは2mくらいはありそうな程に大きいのだ。そして、こいつはたしかに頭がいい。背後に回り込んで様子を伺う仕草に、熊五郎の知性を感じてしまう。そして、その考えが余計に僕を恐怖させる。
 早く、一時も早く、このチャンスにカヤックを水辺に運び込んで脱出しよう。熊五郎が風下に回り込んだところで、残りのベアースプレーをあたりに噴射してまき散らす。その粉塵は、熊に直撃することはないが、カレーの匂いを紛らわすのには、役立ったに違いない。
 四つん這いに戻った熊五郎は、森の手前の茂みに隠れて今では、その姿が見えない。茂みの中に石をほおり続けながら、カヤックを急いで水辺に浮かべる。茂みから熊五郎が突進してくるのはないかという恐怖におびえながら、持てるだけの荷物を浮かべたカヤックに積載していく。
 水辺を背に、距離をとって森を眺めると、ようやく一息つける。熊五郎が茂みから顔を出したなら、もう海へ漕ぎ出してしまえるだろう。見えない熊五郎に投石を未だに続けながら、茂みの奥を伺うが、奴の姿は見受けられない。彼は、森へ帰っていったのだろうか?
 手が、膝が、震えていた。その場にへたりこんでしまったら、腰が抜けてしまいそうだった。様子を伺いつつ、テントを撤収して、とにかく荷物を全部カヤックに積み込む。確かやかんの把っ手が、あたりに転がっているはずである。把っ手がなかったら、沸かしたお湯が熱くて大変だ。それから問題のカレーライスを、今すぐ海の中に捨ててしまおう。戻って来た熊五郎に人間の食事を、食べさせる訳にはいかない。人間の食事を食べた熊は、その後も人間の周りをうろつくようになるのだから。

 時刻は夜の7時すぎ。あたりはうす暗くなり始めていた。人生最悪の船出である。すべての荷物をカヤックに積み終わると、ガルフォース島のビーチを後にする。とにかく、今晩はこんな場所では眠れはしない。小雨は未だ降りしきるなか、島の対岸へ向けて漕いでいく。
 とうとう、熊に出会ってしまった。ずっとずっとアラスカを旅しながら、僕が恐れていたものの正体と遭遇してしまった。真っ黒でのそのそと歩く、人間を恐れないあいつ。マイペースでくんくんしながら、いつも食べ物を探しているあいつ。もうカレーライスなんて、二度と荒野ではつくるまい。そして、いつ何時も食事は、ベアーコンテナに入れて、テントやカヤックから遠く離しておこう。

 2時間ほどかけて、ようやく対岸の岬の先に見通しよく安全にキャンプできる場所を見つける。雨の中テントを張り直す。食料だけをテントからより離れた場所へデポしにいく。テントに戻ってくると、疲労困憊してそのまま寝袋に潜り込む。腹はすいているが、胃が食べ物を受け付けなさそうである。体は疲れているのだが、うまく眠れない。小さな物音ひとつひとつが熊五郎の気配であるような気がして、神経が休まらない。
 もうこんなことは止めよう。明日になったら来た道を引き返そう。写真を撮るためとはいえ、こんなことは馬鹿げている。正気じゃない。
 いつの間にか、風が吹き始めていた。テントを風が揺らしはじめていた。明け方、外が薄明るくなりはじめる頃に、ようやく僕はまどろみはじめて、薄い眠りにつつまれるのだった。