7月30日

 アラスカに到着してから、7日目の朝。ヘインズという南東アラスカの小さな街に来ている。交差する2つの通りに並ぶ数件の店だけで、ほぼ成り立っているといっていいこの小さな街は、深く入り組んだフィヨルドの入り江に向かって、細長く突き出した半島の突端に位置する街である。
 カヤックや、トレッキングでアクセスできる撮影のターゲットたる氷河が近くにある訳ではないのだが、この街の西側の山向こうには、その名もグレイシャー湾州立公園、つまり氷河湾州立公園と呼ばれる広大な氷河に覆われた地域が広がっており、ヘインズはそのグレイシャー湾州立公園へのセスナ機の発着の基地になっている街である。
 氷河の撮影の為、シーカヤックで海原に漕ぎいでる前に、ロケーションハンティングをしようという算段で、ここヘインズの街にはやって来た。東京ドーム約2800個分に匹敵するその氷河湾の広大なエリアを、シーカヤックで漕ぎ出す前に、是非とも上空から現在の氷河状況(つまり、どこの入り江の氷河が撮影に値しているかどうかの調査)を確認したいところである。
 
 昨晩から、泊まっている街はずれの安宿で朝起床すると、共用キッチンでトーストとコーヒーだけの、簡単な朝ご飯を作って食べる。4人部屋のその他の人員は、なぜかバックパッカーの旅行者とはかけ離れた、やさぐれてくたびれたおじさんたち二人である。二段ベッドの下に寝ている僕は、上段からの、しばしばの激しい寝返りによる振動と、絶え間ない隣のベッドの轟音と呼んでいいほどの鼾に、睡眠を著しく妨げられて、朝の未だほの暗いうちに仕方なく起床。ぐっすり眠れる個室の部屋に移りたいところであるが、これからかかるであろうセスナ機のチャーター代などのことを考えると、ここでの出費は控えたい。

 本日も昨日と変わりなく曇天。共用キッチンで朝食をつくった後、街までの2マイルほどをとぼとぼと歩いていく。ビルの4、5階くらいはありそうな高いトウヒの木々が立ち並ぶこの林道には、誰も歩いている人などはいない。林道に沿ってぽつんぽつんと並ぶ家は、それぞれなんとも個性的である。
 街には、2つの遊覧飛行会社が、軒を連ねている。ひとまず店構えのしっかりとしたグレイシャーフライトシーイングカンパニーを訪れてみると、事務所では大柄の中年女性が一人で、電話の受け答えや受付の対応をしている。
 彼女によると、現在天候待ちの状況で、天気が回復次第、セスナは飛ぶ用意があるとのこと。けれど、僕の希望に沿って、ヘインズの街からグレイシャー湾の東側、西側の両方の氷河を遊覧した後、氷河湾の玄関口であるガステイバスの飛行場まで飛ぶルートは、 複数のパーティーであるならまだしも、 かなり高額である。ひとまず事務所をおいとまし、明日以降電話で連絡をとりあうことに。
 隣のドレイクフライトシーイングは、ドアが閉まっている。公衆電話から、ドアに下がったモバイルの番号に電話してみると、やはりこちらも現在天候待ちの状況。明日以降また連絡が欲しいとのこと。

 天気ばかりは仕方ないが、午前の早い時間に見知らぬ街で、することもなくなってしまう。宿に歩いて帰る気にもなれずに、目についた街の図書館に向かう。10分も歩けば街の外に出てしまう街の規模のわりには、そこはしっかりとした施設である。冬の厳しく長いアラスカにおいては、図書館はとても大切な公共施設に違いない。
 読むともなくアラスカの鉱山発掘の歴史の本を読んでいるうちに、いつの間にか椅子に座りながら眠りこんでしまう。昨晩は、相部屋でうまく眠れなかったせいである。ふと目が覚めると、いつの間にか数時間が経っていた。ここまで、ずっと南東アラスカを休みなく北上してきた、疲れがきているに違いない。

 けれど、また早く荒野にひとり撮影にでかけたかった。見知らぬ街でひとり時間をつぶしていると、意味もなく不安な気持ちに襲われる。一体、自分はここで何をしているのであろうかと。そして、ここまでの一週間以上、南東アラスカでの氷河の撮影は、うまく言っているとは言いがたかった。日本の都会で暮らし、仕事をしていた精神と肉体の状態が、未だアラスカの大自然にフィットしていないような感じなのだ。
 昼飯を近くのダイナーのハンバーガーで簡単に済ませた後、することもなく港に程近いバーにビールを飲みにいく。残念ながらというべきか、それくらいしかする事が思いつかない。バーには、人はまばらである。観光客たる人は見当たらない。カウンターで見るともなく、アメリカンフットボールのダイジェストを眺めながら、アラスカンアンバービールを2杯ゆっくり飲んだ後、また1マイル程の宿までの道をとぼとぼと歩いて帰ってくる。

 うらぶれた相部屋に帰るのが少し憂鬱である。とぼとぼ安宿への道を歩いていると、一台のくたびれた白い日本車のセダンが、僕を追い越し、僕の前で止まる。白人の女性が運転している車である。見ると助手席には二段ベッドの上で寝ているオーストラリア人のピーターが乗っていて、「ヘーイ、ジャパニーズ。乗っていけよ。」と手招きで僕に合図している。後部座席のドアから車に乗り込もうとするけれど、後ろの席にはあらゆるものが散乱していて、ものをかき分けなくては座れない。運転している女性は、適当に座ってと笑顔で僕を促す。
 ふたりは、陽気に酔っぱらっていて、とても楽しそうである。僕におかまいなしに、楽しそうな会話を続けている。女性は、明らかな飲酒運転である。
「それでね、キャシーのところの犬がね、毎日私のところにエサをもらいにくるのよ。3マイル以上も離れているっていうのによ。最初に私がかわいそうになって、エサをあげてしまったのが悪かったんだけれどね。キャシーのところでは、どうやらエサをあげてないらしいの。どうしたものかしら。決まった時間に毎日くるんだから、困っちゃう。それが、かわいそうな声で私に啼くのよ。あのワン公ったら!あーもー!キャシーに今、電話してやるわ。へぼダイエット番組ばかりにかじりついているなら、わんちゃんの面倒くらいちゃんとみなさいって。そのうちワンちゃんだけでなくて、旦那の方だって家には寄り付かなくなるんだから。旦那まで私の家に来られたら、それこそたまったもんじゃあないわ。あーでもキャシーってほんとに何をいってもだめなのよね。あの子、ほんとに子供の頃から聞く耳ってものを持っていないんだから。」
 助手席では、ピーターがにやにやと笑っていて、肩をすくめるように僕の方へ目配せする。ふらふらと走行する運転の方を僕は心配しながらも、ふたりのたわいもない会話を聞いていると、気持ちがすこし和んでくる。この小さな街では、夕方になると飲み始めることくらいしか、誰しも思いつかないのだ。特に、今日のような曇天の午後には。